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善の研究 (岩波文庫)
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| 商品カテゴリ: | 人文,思想,学習,考え方
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| セールスランク: | 7036 位
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| 参考価格: | ¥ 735 (消費税込)
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日本思想の欠点としての西田哲学
端的に私が『善の研究』の西田に感じる問題点を列挙する。
1.宇宙をこの宇宙に限っていること
2.実在概念に物理学が相対化しきれていないこと
3.動物と人間との関係を軽視していること
4.人格の不完全性が解明されていないこと
5.対となるべき悪の研究が為されていないこと
6.意識に直接作用する存在は何であるかが言明されていないこと
7.歴史的宗教への言及が不十分であること
量子力学もハッブルの法則も西田の生きた前世紀前半には既に既定の事実として理論化されていたから、宇宙をこの銀河系、太陽系、地球の属するこの宇宙に限っていることは、他方で物理的実在に言及する以上、ちょっと理解が浅すぎるのではないか、と思われる。
全編に貫かれる意識主義によって、西田哲学の主眼は人間の意識主義に限定され、ともすれば動物蔑視の文言が散見されもし、人間が動物から進化したものである歴史を踏まえていない上で、また、現世を動植物と共有している世界を飛び越して、即宇宙と人間が繋がるという論理にもどこかに飛躍した欠陥があるだろう。
それもこれも、出版社の要請に応じた講義録の寄せ集めによって成った本書の性格からすれば仕様がないことなのかもしれない。
依然として日本でナンバーワンの哲学者
難しいといわれる第一編の「純粋経験」は、なんとしても読破すべき。尤も、分析的に考えると、叙述形式から却って難解に思えるが、流れる文体にそってその通り読み進めれば、相応に納得する。学説的な知識からいくと、ジェイムズとヘーゲルのアイデアのまま、のようなところで、オリジナリティは、高くないが、自身のものとして自身の言葉で展開しているところが最大の魅力。二篇の「実在」は余り面白みがなく、第三篇「善」が、本書のテーマで中枢となる。自己の実現、自己の望みを達成して調和を得るところに、最高善をみるところは、人間の欲望を肯定的に捉えたヘーゲルの倫理学と同じだ。実世界の人間的な欲望を無闇に抑制するような道徳論は批判の対象となっている。また、個の実現が、それが本物なら、社会(国家)全体に寄与するというところへ展開するところも、いかにも「近代」思想で、ヘーゲルの「法哲学」を思わせる。が、ヘーゲルにおいて赤裸々に暴かれ対決された「疎外」の問題、近代社会の貧困や、自己実現を目指すが故に直面する自己の没落、という「近代社会のパラドックス」は、全く視野の外に置かれている。その代わり、自己実現の挫折へは言及があり、そこから宗教的な解決に進む件は、ヘーゲルの「精神現象学」を匂わせるし、一層、「個」への執着を示す。でも、ヘーゲルにあった差し迫った他者との対決も、格闘する意識も、ここにはない。近代的二元論の超克がテーマでありながら、その問題が、実社会でどのように表出しているか、それを捉えての対決はない。それでも、思考の徹底性、包括性、文章、どれをとっても第一級品だと思う。でも、同時代の漱石や鴎外、少し後の志賀直哉や昭和初期の小説家たちは、表現は異なっても、「近代」の問題をもっと真正面から捉えていたように思える。そういう意味では、日本では哲学者はこの点に関する感度は今ひとつの感が否めないと思う。
意識の世界から「善」を考える
明治44年発行の書物である。西暦では1911年にあたる。この年はキューリー夫人がノーベル賞をとっている。 普通選挙法がようやく施行され、幸徳秋水が刑死した年でもある。1905年までさかのぼると、アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を発表している一方で、夏目漱石が、処女作「吾輩は猫である」の連載を開始している。現代を支える物理や文学の萌芽の時代である。
よく読みこなせば疑いもなく、ほぼ1960年代頃に流行ったニューエイジ系オカルトに親近性があり、かつその先を行っている。ベルグソンやハイデッカーに通じる「意識の哲学」である。これは潜在無意識にある高位自我、「ハイヤーセルフ」などの超越的自己について言及し、禅を通じて「他人の意識」を「自己の意識」として感じ取り、「人のよくせざるところ人に施すことなかれ」という「善性」の根幹を、直接経験として感じる行為的直観の作用をベースにして、そこから倫理への影響を前面に出しているものなのである。「絶対矛盾的自己同一」とはつまるところ、「他人」と「自己」は意識を別にして、かつ別々に思考する独立無二の絶対に同一ではない単体同士であるが、潜在意識は繋がっていて「自己同一」する場合が「禅」において見られた経験(彼の体験)を述べたものである。
西洋哲学一般が「仮説」を設定して考究する演繹的思考が随所に見られるのに比べて、日本人的思考の癖で、仮説設定はとらず帰納法的で結論が見えにくくなっているので遠まわしに見える。
意識の世界から「善」を考える哲学というよりも、普遍無意識の世界から「善」を考える哲学としてはユングに近く、そうした覚醒的な経験の結果を言語として取り出し、定義しようとするところでジェームスに近い。そして宇宙を語るところでは、やはり東洋であり根幹は仏教なのである。
本物の哲学書だが、あくまで記念碑として
純粋経験とは、物事への偏見なき接近への道であり、頭で考えられた概念ではなく、知覚そのものの世界である。真に知覚された世界とは仮初の世界ではなく、世界そのものである。経験できる世界よりほかには、世界などありはしない。まことに世界を知覚できれば、自ずからそれを言葉にすることもできるはずである。なぜなら、言葉とは世界そのものだからである。
「場所」や「論理と生命」のような後の輝かしい論文と比べると、どうしても見劣りはする。だが、日本の哲学の出発点となった記念碑的著作であることにはかわりがない。確かに稚拙だが、この処女作にはその後の西田哲学が含まれているのも確かである。と同時に、この作品だけでは西田幾多郎は哲学史の中に刻まれることもなかっただろう。その程度のレベルとはいえ、哲学の考え方に慣れていないと読みにくいのも確か。残念ながら、平気でデカルト批判とかしているミーハーな読者は近づかないほうがよい。とはいえ、真摯な読者でもなかなか入り込めるものではない。できれば、京都学派の他の著作とか、同時代の生の哲学(W.ジェイムスやベルクソン)とか、いろいろと読んでおくとよいのかもしれない。ちなみにこの著作の他で、読むのをおすすめできる論文は「論理と生命」である。比較的に用語の使い方が怪しくなく、素直に生命と環境の相互作用論として読めるところがよい。とはいえ、「善の研究」が西田幾多郎の哲学書の中では文章が読みやすいほうなのも事実である。
人は何故生まれ、何故生きねばならぬのか、人生を掘り下げた本だ
西田幾多郎の代表作『善の研究』。一般的には、西田哲学は、その言い回しといい、独特の概念といい、難解な世界だといわれていた。中には「ただ抽象論をもてあそぶにすぎない」とまで酷評する声も聞くが、果たしてそうであろうか?難解な熟語(概念)の中身には触れないが、この本は、人は何故生まれ、何故生きるのか、否、生きていかねばならないのか、それを深く深く掘り下げた世界であると思う。18歳の頃はとても読めなかったこの本。54歳の今、なぜか西田の言わんとすることが、おぼろげながらわかるのは何故だろう。そこで一つだけ、西田の言葉を紹介しておこう。西田の『神』は次ぎのようなものである。西田の『神』は、毎日毎日刻々と生きる日常生活に中にこそ実在するのである。西田は具体的な生身の人間を哲学的体系的に捉えていると思う。『神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動となんら関係もないように感ぜられるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。さきにいったように、我々の欲望は大いなる統一を求むより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というのも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。しかるに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するののではない。更に進んで一層大いなる統一を求めねばならぬ。我々の大いなる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むようになる。我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である』
岩波書店
「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) 西田幾多郎随筆集 (ワイド版岩波文庫) 日本的霊性 (岩波文庫) 西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書) 風土―人間学的考察 (岩波文庫)
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